過去のコラム

2004年3月3日

児玉ニア(KODAMANIA)

古老さんのサイトで「パネルクイズ・アタック25」の話をしていて、この老舗ともいえるクイズ番組のことを思い出した。1975年(昭和50年)の春にスタートというから、この番組はもはやテレビ史上に残る長寿クイズ番組、という事になった。公式サイト

私は子供の頃からクイズ番組が大好きだったので、「アタック25」も番組開始当初から見ていた。提供スポンサーは東洋リノリューム、略して東リ。どうやら、今では東リが正式な社名らしい。公式サイト

「アタック25」クイズの優勝者には、エールフランス航空で行くパリの旅がプレゼントされていた。公式サイトによると、いまでは「ドイツ・ロマンチック街道とスイス・アルプス、パリ10日間の旅」とグレードアップされている。しかしこの30年近くの海外旅行事情の変わりようを思えば、それほど大幅なグレードアップという事も無いだろう。自分が子供だったからかも知れないが、あの当時パリ旅行プレゼントなんて、もうため息の出る世界であった。今ではロマンチック街道に行くからと言って、ため息の出る子供もあまりいないだろう。「東京ドームのヤンキース開幕戦、バックネット裏ペアでご招待!」とかの方が、かえって嬉しい人が多いのではないだろうか。いや別にケチをつけているわけでは無いんですけどね。

この番組が始まった当時は、視聴者参加クイズ番組花盛りの時代であった。月〜金のお昼にはTBSの「ベルトクイズQ&Q」これは押坂忍の司会であった。また昨日もお話した、田宮二郎の「タイムショック」、またフジテレビでこれも平日の夜に放送していた、小泉博司会の「クイズ・グランプリ」。日曜の夜には「アップダウンクイズ」もあった。純粋なクイズとはまたちょっと違うかもしれないが、関口宏司会の「クイズ100人に聞きました」もこの前後に放送を開始しているはずだ。

クイズ番組というのは、セットには割とお金がかかるかもしれないが、司会者を除いて出演者は一般の視聴者だし、放送が始まってしまえばそれほどお金がかからないから(賞金はかかるけれど、100万円とかはそんなに出ない)頻繁に製作されたのかもしれない。また司会者に起用されるのは男性の俳優が多く、なんとなく知的というか安定感、安心感を視聴者に与えるようなタイプの人が多かった。しかしこれらの番組は、もう殆どが放送を終了してしまった。一時はクイズ番組冬の時代、などとも呼ばれたらしい。最近では「ミリオネア」というアメリカにもあるフォーマットの番組が人気を博しているらしいが、こちらは観た事がない。そういった、テレビのクイズ番組栄枯盛衰の時代を乗り越えて、このアタック25は間もなく放送開始30年を迎えようというのだから、本当に大した物だと思う。

で、この「アタック25」だが、単に博識なだけでは勝ち抜くことは出来ない。なんといっても、あの25枚のパネルを要領良く取らないといけないのだ。このパネルの取り方が勝敗を決するという、クイズ+ゲームの面白さが長寿の秘訣なのかもしれない。だがなんと言ってもこの番組最大の魅力は、司会の児玉清にあることは間違いあるまい。この人も、今でこそ司会者というイメージが濃くなってしまったが、本職は俳優だ。最近では木村拓哉主演のドラマなどに出演し、また俳優業のほうも随分忙しくなってきてるようだが、何しろ同一番組の司会業を30年近く務めているのだから、この番組はもう児玉のライフワーク、と言っても過言では無いだろう。

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大体、こんな感じかな?これから「アタックチャンス!」(後述)

実際、インターネットで「児玉清」と入力して検索してみると、多くのサイトでこの「アタック25」についての紹介がなされている。ここ数年く番組を見ていないので最近のことははっきりと分からないのだが、児玉の司会ぶりは健在、いやそれどころか、もはや名人芸の域に達して完成しているようだ。何しろこの30年間、毎週のように(数本録り貯めかもしれないが)同じフォーマットのクイズを見続けてきたのだから、もう番組の全てが彼の掌中に収められているといっても過言では無いだろう。観た事が無い人のために言っておくと

1.本戦のクイズ 2.アタックチャンス 3.トップ回答者による最後のクイズ

という流れで番組は進行していく。この全てを30分で収めるのだから、番組の進行はスムーズでなければならない。そして児玉氏には「児玉語」とでも呼ぶべき、このクイズにおける常套句が数多くあるのだ…あぁ長くなってしまったなぁ。明日、明日に続けましょう。

(文中敬称略)


2004年3月2日

今も世に…  

「白い巨塔」を毎週、日本語放送で楽しみに見ている。最近は日本のドラマが軽く感じられていたのだが、この作品は違う。しっかりした、重厚な作りを心がけているのが嬉しい。アウシュビッツのロケなど見どころもあるし、何より俳優陣の豪華さが素晴らしい。普通のドラマなら主演を張る事のできる人たちをふんだんに投入している。

「白い巨塔」と言えば、なんと言っても田宮二郎の遺作として名高い、テレビドラマの傑作であった。田宮二郎は、私が小学生の頃、この作品を撮り終えてから猟銃自殺を遂げた。その時のことははっきりと覚えている。大映時代に彼が出演していた「悪名」などの代表作には、リアルタイムでは間に合わなかったが、彼が司会で人気を博した「クイズ・タイムショック」は、まだ小学校に行ってない子供の頃から好きで、毎週楽しみに観ていた。「現代は、時間との戦いです…」という、田宮の決め台詞を、時計を握り締めて(実際にはストップウォッチだが、そんなもの家には無かった)何度も真似していたのだ。俳優・田宮二郎を、リアルタイムで追いかけてい人に言わせれば「はぁ?」となるかも知れないが、私が彼の名を聞くとまず最初に思い出すのは、あの番組である。

幼い私の目に映る田宮は、本当に渋くて、男っぽくて、格好良かった。今にして思えば、彼はまだ30代後半で、現在の私と同世代だったのだが、とてもそんな感じはしなかった。これは私が子供だったせいだろう。ただ「白い巨塔」では、彼の鬼気迫る演技や表情に、畏れを抱いていたように思う。後に知ったのだが、このドラマを撮影していた頃から、既に彼の精神はかなり不安定な状態だったらしい。そしてこのドラマに、文字通り役者生命を賭けていたのだという。

「白い巨塔」は後に再放送され、この時も話題となった。ファンの多い作品だったが、今回25年の歳月を経て、唐沢寿明主演でリメイクされた。最初にこの話を聞いたとき、ちょっと意外な感じがした。どうしてリメイクするのだろう、もうあれほどの作品は出来ないだろうし、いまさら作り直す必要があるのか、再放送すれば良いだけじゃないか、と思ったからだ。唐沢も田宮とはタイプの違う役者だからだ。でも実際に観て、そういう先入観はかなり払拭された。要するに、全く別の作品として楽しめばよいのである。

確かに田宮版(昭和版とも呼ぶらしい)「白い巨塔」に思い入れのある人から見れば、いろんな意味で不満はあるだろうが、それは言っても仕方が無い事だ。第一、当時と今では役者が違う。顔つきが違う、演技が違う。テレビドラマの作り方が変わっている。「昭和版」に出ていた小沢栄太郎や、中村伸郎のような役者はもういない。同じものはどうせ出来ないのだし、やっても意味が無いだろう。今の時代にあう「巨塔」が出来て、田宮を知らない世代の人も楽しんでもらえばよいのだ。それに昭和版のDVDも日本では発売されたという事で、合わせて楽しむ事もできる。

ただ、それでも、平成版「白い巨塔」を見る私には、颯爽とした田宮二郎のことを思い出さずにはいられない。今もなお、あの人がこの世にいれば…いい役者はたくさんいたが、そんな思いを抱かせてくれる俳優はそういない。日本では最近、田宮二郎が再評価され、昔の映画やテレビ作品を観る機会が増えているという。結構な事だ。私もそのうち、まだ観た事の無い田宮作品をいろいろと観て見たいと思う。


2004年3月1日

Texas Fight  

テキサス大学は、ビッグ12カンファレンスに所属し、スポーツの強い学校として知られている。今年から地元ヒューストン・アストロズでプレーする事になった300勝投手・ロジャー・クレメンスや、マイアミ・ドルフィンズのRBリッキー・ウィリアムズもこのテキサス大学「ロングホーンズ」の出身だ。そのファイトソング(応援歌)である"Texas Fight"を聞くと、私はあるプロレスラーを思い出す。それは70年代から90年代半ばにかけて日本マットでも活躍した、ディック・マードック Dick Murdochだ。マードックは新日本プロレスのマットに上がっていた頃、このテキサス大学のファイトソングに乗ってリングへと入場していた。

マードック自身はテキサス大学の出身ではないそうだが、その風貌はいかにも荒くれ西部男がやって来たような感じで、テンガロンハットが良く似合いそうであった。マードックは、当時プロレス界で最大の権威だったNWA世界ヘビー級王座こそ獲得する事が出来なかったが、レスラー仲間からは大変恐れられていたという。つまり彼は、喧嘩なら誰にも負けない「本気にさせたら怖い男」だったのだ。そしてレスリングも大変巧く、「ブレンバスター!」と掛け声と共に繰り出す必殺技の垂直落下式ブレーンバスターはその十八番であった。

だが日頃のマードックは、あまり真剣に試合をやっているようには見えなかった。何時も黒のショートタイツがめくれて「半ケツ」状態になったり、なんとなく試合を「こなす」という姿勢が見え見えであった。マードックはビールを飲むのが大変好きだったそうだから、試合は美味いビールを飲むために、いい汗をかく方法だったのかも知れない。体もどちらかといえばたるんでおり、ビール腹だった。強くなるための努力や練習など、まるでしていないように見えた。今のWWEのレスラーとは、かなり違うタイプであった。だが、それでもマードックは強く、格好良かった。それは日本人の考える「強いヤンキー」の象徴だったのかもしれない。彼がニッと笑ったら、前歯が無かった。今までどんな人生を送ってきたのか、それだけで分かった気がした。ひょっとしたら、リングの上で行われる正式な試合より、酒場でのファイトの方が本気だったのかもしれない。「本気でやったら一番強い」「やるときはやる」…そんな思いを抱かせてくれる男だった。

若い頃は、ダスティ・ローデスと「ジ・アウトローズ」というタッグチームを結成していたが、新日本に移ってからは、アドリアン・アドニスとタッグを組んでいた。このアドニスとのチームも強かった。マードックはシングルプレイヤーとしても、アントニオ猪木とIWGP選手権を争った事もある。私はその試合を観に行った。試合前に両国国歌吹奏されたのだが、マードックはアメリカ国歌が終わった後、一瞬、星条旗に敬礼をした。それがまた、たまらなく格好良かった。試合は猪木が勝ったが、そんな事はどうでも良かったのだろう。

マードックは1996年、心臓発作の為に、49歳の若さでこの世を去った。プロレスリングの歴史には、もしかしたら載らないかもしれないが、マードックはファンから愛されたレスラーだった。彼の「トンパチ」(ハチャメチャ)ぶりは、愛すべきテキサンのそれであったのだ。あんな男が近くにいたら、いろいろ迷惑をかけられるだろう。でも一度でいいから、マードックとビールを、潰れるまで飲んでみたかったと思う。


2004年2月29日

Daishi  

筆者の本名は、「大士」と書いて「だいし」と読む。多い名前ではないだろう。私も生まれてこの方「だいし」という名前の人には数人しかお目にかかった事が無い。

ところが日本に住んでいるころ困ったのは「大士」をだいし、と読んでくれる人があまりいなかったことである。「たいし」というのが一番多く、次に「たいじ」「だいじ」などもあった。しかしこれは仕方があるまい、何しろ珍しい名前なのだから。用心深い人は「このお名前はなんとお読みするのですか、『だいし』さんですか、それとも『たいし』さんですか」と聞いてくださるのだが、間違えられ慣れている私は「あ、どちらでも良いですよ」などとつい答えて驚かれる事もあった。どうぞお好きなほうでお呼びください、どちらでも反応しますから、というつもりだが、人によっては「からかっているのか?」と気分を悪くしたかもしれない。

次に、私の名前の読みは知っているが、漢字でどう書くか知らないケース。「大志」と書かれる事が多い。通常はめんどくさいので訂正しないが、どうしても必要がある場合には「『し』は武士の『し』」です、と答えていた。しかしそう言うと、武士のし、という表現が面白いらしく「まぁ、いい名前ねぇ」などと言われて照れ臭いので、これもあまり使わないようにした。変わって「”志”は下に心、という字がありますね。私は心無い人間ですので”士”です」と言う風に変えてみた。たまにウケるけれど、怪訝な顔をする人も多いのでこれもあまり使わないようになった。だから今度はどうしよう「弁護士の士です、でも弁護士じゃりませんので法律相談には乗れませんけど」にしてみるか。

アメリカに来てからは「Daishi」と書く。これは名前も、読みも間違え様が無い。しかし「ダイシ」とすんなり読め無い人も中にはいる。「ダーシー」「ダイィシィ」と呼ばれる場合もある。またスペルを知らない人は、メールなどで"Daish" "Daisy" "Dasy"など、いろいろ書いてくる。ただ基本的には呼びやすい名前のようだ。アメリカ人には漢字好きも多いので「お前の名前を漢字で書いてくれ」などと言う人もいる。

ただ一人、私の名前をなぜか「ヨシ」と覚えてしまった男性がいて、彼は私の事を見かけるたび「ハ〜イ、ヨシ!」とフレンドリーに話しかけて来る。私はこういう「明らかな間違いが続く」シチュエーションが好きで、もちろん訂正しないから、彼は何時までも私の事を「ヨシ」と思い込んでいるのだ。だからと言って、他の人が「ヨシ」と私のことを呼んでも振り返る事は無いだろう。「ヨシ」は、彼と私の間でのみ通じる秘密のコードネームでなのある。掲示板で「ヨシさん…」などとレスされても分かりませんので、悪しからず。


2004年2月28日

Root, Root, Root for the Cubbies...  

透明の箱に入れられた通称「バートマン・ボール」は、あっと言う間に木っ端微塵に破壊されてしまった。シカゴの、カブスファンの怨念が宿るボールだけにこれで漸くすっきりしたという気もするが、しかし冷静に考えてみればボールのせいではないので、ちょっと滑稽な気もする。でもまさかファウルボールに触った人を破壊するわけにも行かないし、ボールをやっつけてしまう他に方法が無かったのであろう。

2003年のナ・リーグチャンピオンシップシリーズ第6戦、シカゴ・カブスはワールドシリーズ出場をほぼ確実にしたかに思えた。本拠地リグレー・フィールドには「その瞬間」を見ようと、多くのカブスファン達が詰め掛け、熱狂的な声援を繰り広げていた。だがモイゼス・アルーがファウルボールを取り損ね、そのままカブスがまさかの逆転を喫してから、あれだけ盛り上がっていた場内は、あっと言う間に静まり返ってしまった。そして6,7戦を続けて失い、またもワールドシリーズへの出場を阻まれた愛するチームを見て、ファン達はただ涙にくれるしか無かったのである。

シーズンも終了した昨年12月、オークションにかけられたこのボールは、シカゴ市内のスポーツ・レストラン「ハリーキャリーズ・レストラン」を経営するグラント・デ・ポーターが、11万3824ドル16セントにて落札した。そして昨日、デ・ポーターが店の前に設置した特設会場にて爆破されたのである。特殊な仕掛けによりボールは爆破されたが、硬いベースボールはあんなにも簡単に破壊されてしまうものなのだ、と言うことを初めて知った。

シカゴの野球ファンは、私が最も好きな人々である。東部のファンのようにシリアスではなく、もっと肩の力が抜けており、それでいてレッドソックスのファンと同じように野球を愛している。初夏の昼下がり、作り物ではない本物のレトロ・パークであるリグレー・フィールドで、ビールを飲みながらデーゲームを観戦するのと同じくらい心地良い事が、この世の中にあるとは私は思えない。

素晴らしい街、美しい球場、愛すべきチームとファン。でもひょっとしたら、もうそれだけでシカゴには満足だろうと神様が考えるからか、カブスは95年間に渡ってワールドシリーズ制覇を果たせないでいる。だがそれでも、いやそれだから、カブスファンはチームを見捨てない。一度で良いから、カブスがワールドシリーズに勝つところを見たい…いや、殆どのファンは、カブスがワールドシリーズに出場した事すらもう見たことが無いのだ。だからこそ、あの出来事を、もう忘れてしまいたかったのであろう。

ESPN.comによるとデポーターは、レストランのホームページでどのようにボールを始末するか募集したところ、実に25,000通もの応募があったという。中には、ボールを灰にしてヤンキー・スタジアムで撒くか、夜中に忍び込んでセンターフィールドに埋めるかして、呪いをヤンキースに移してしまえとか、熱狂的なカブス・ファンで知られる俳優のビル・マレーに「ゴーストバスターズ」の格好をさせて、跡形も無いぐらいに壊させてしまえ…などと、面白いアイデアもたくさん寄せられたようだ。

この日のイベントでは、他にもハリー・キャリーの物真似コンテストなどが開かれた。ハリー・キャリーはカブスの実況アナウンサーとして親しまれた人である。あまり似ている人はいなかったが、出演者は皆楽しそうに演じていた。そう、そんなものでよいのだ。たかが野球に目くじらたてるのは、ニューヨークやボストンの人間に任せておけ。俺たちは、俺たちの流儀で野球を楽しもう…ボールが破壊された事で、シカゴの人達がまた自分達の野球を取り戻してくれた事を祈るばかりである。

(文中敬称略)

 


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