過去のコラム

2004年2月22日

 一度も会えなかった人 

ネットをしていると、お気に入りのサイトが幾つか見つかる。そのサイトに頻繁にアクセスするようになり、そのうち掲示板にも書き込んだりして、メールでお話をする人が出来たりする。海外に住んでいる関係上、実際にはお会いできたりするあまり機会も無いが、それでも帰国した際には時間を作ってご対面する事があった。簡単な、オフ会「の・ようなもの」を開いて、常連さん同士を引き合わせた事もある。

一方では所謂「ロム専」に徹するサイトもある。掲示板に書き込むサイトと、書き込まないサイトが自分の中でどう違うのかは分からないが、なんとなくロムっているだけの方が楽しめる、という所もあるのだ。

そんなサイトの管理人さんが、お亡くなりになられた事が以前、数回あった。そのサイト主宰者さん達とは、メールすらやり取りをしたことが無い。だからあちらは私の存在をご存知無いのだが、私はそのサイトのファンであり、自分と同じ趣味を持っていらっしゃることに親近感を持ち、そして私を遥かに上回る知識・見識に対し、深い敬意の念を抱いていた。

ところがある日を境に更新が止まり、掲示板も予告無く閉鎖されたりしてしまったので、突然どうしたのだろう、ネットにアクセスできない事情でも出来たのかな…と心配していると、他のサイト等で「実は亡くなったらしい」という情報を目にして、ショックを受けたことがあった。ネットのことだから誤報やデマではないか、と思うし、信じたくないという気持ちも強いのだが、やがて事実だと判明した。

人間、いつかは死ぬ。当たり前のことで、これだけは絶対にどんな人間も避けることは出来ない。だからそんな事があってもおかしくは無いのだが、一度も挨拶をせぬままそんな事態を迎えてしまうと、感じるのは「しまった」という事だけである。一度で良いから、メールなり掲示板などで自己紹介をしておくべきであった。こんにちは、私はあなたのサイトをいつも見ています、素晴らしいサイトですね…だが、その機会は永遠に失われたのである。彼らとは、ひょっとしたら友人になれたかもしれないのに…

後悔先に立たず、愚かな話である。一期一会という。現実の出会いでは心がけているつもりだけれど、ネットだとついおろそかになっているのかもしれない。一度も会わずに、話もせずに、その死を知ることは空しく、悲しい。ただただ、会えなかった、言葉を交わすことも無かった人の冥福を、心より祈るばかりである。


 

2004年2月21日

 UWF20周年  

昨日のコラムを読み直してみたが、「人口」という言葉をめったやたらと連発している事に気付いた。どうやら「人口」という言葉そのものが好きみたいである。あれだけ連発すると言う事は、もうそれ以外に考えられない。立派な「人口フェチ」である。だから今日も書いておこう。人口人口人口。

今年はUWFが出来て20周年にあたると言う。もう、そんなになるのだ。

と言っても「UWF」が何なのか、分からない方が殆どであろう。UWF、略してUは、1984年に旗揚げした格闘技性の高いプロレス団体の事である。格闘技性の高いプロレスというのは、従来の派手なエンターテイメント色の高い試合内容から、キックや投げ技、そして関節技や締め技といった寝技、グラウンド・レスリングの攻防を全面に押し出して戦う濃度の高い試合を展開した、という事を指す。

84年春、UWFの旗揚げに加わったのは前田日明、ラッシャー木村、剛竜馬、マッハ隼人らであった。前田以外は大して「格闘技」という気がしない。だが途中から初代タイガーマスク(佐山聡)藤原喜明、木戸修、高田延彦、そして山崎一夫らが加入して流れはガラッと変わった。佐山がキックボクシング仕込みの激しい蹴りを繰り出すと、「関節技の鬼」藤原はグラウンドに持ち込んで関節を極めにかかる。木戸はいぶし銀のレスリング・テクニックでトーナメントの第1回王者となった。試合は後楽園ホールで行われる事が多く、テレビ放映の無いリングは暗く、ファンもレスリングの攻防では固唾を飲んで観戦した為シーンと静まり返っていた。しかし冷めていたわけではなく、どこの団体にも負けない熱気があった。

だが大阪で、前田と佐山がプロレスの一線を超えた試合をしてしまう。私はこの試合を生で見ていたが、明らかに異常な雰囲気が充満していた。やがて佐山はUWFを去り、独自のプロ格闘技「シューティング」(現修斗)を旗揚げした。そして経営の行き詰まりからUWFは活動を停止し、かつての古巣だった新日本プロレスに復帰した。しかし前田が試合中に起こした事件が元で出場停止となり、彼は再びUWFの独自興行を行う決心をした。そうして第二期UWFは、プロレス界から格闘技界を巻き込んだ一大ムーブメントを起こす事になる。

いま日本では「プライド」や「K−1」など総合的な格闘技イベントがさかんだ。それらはUWFに比べると、格闘技性もぐっと進歩している。ぶっちゃけて言えばUが「プロレス」の域を超えてはいなかったのに対し、真剣勝負の試合が大勢を占めるようになって来ているのである。今の格闘技ファンは「ガチ(ンコ」か「ヤオ(八百長)」であるかにこだわる。打ち合わせのあるヤオ試合はダメで、ガチの真剣勝負だけが素晴らしいと言うのである。

確かに、そうかもしれない。しかし、そういう「ガチ」の興行が日本で行われる土壌が出来たのは、80年代のUWFブームがあったおかげである。あそこでファンはキックの、関節技の魅力と凄みを知った。日本の格闘技ファンは目が肥えているが、多くはUの試合を通じて目覚めたのだ。いきなり「ガチ」の試合を見ても「何が面白いの?」と理解しない人が多かったであろう。単に「ガチ」の試合が面白いのなら、柔道や剣道の試合はもっと人気があるはずだ。Uの試合は言わば「過渡期」の内容を持っていた。今の興行にも「あの試合はヤオではないか」という噂が立つが、そういう視点で見られるようになったのは、格闘技性の高いプロレスという、言わば両者の中間みたいな試合があったからである。それに今格闘技の世界で試合をしている選手、またコーチ達にもUの影響を受けた者が少なくない。

私を含めたファンもUの魅力に酔った。いま当時のUの試合を見たら、果たして面白いかどうか分からない。「ガチ」ファンから見れば突込みどころ満載であろう。だがそれは、あくまで現在の視点で過去を見た場合の話である。当時、Uのような試合を行う団体は他に無かったのも確かなのだ。Uが出来て20年、この20年は、日本に「格闘技」という一見ファジーな、しかし確実に面白いジャンルのスポーツが根付いた時代でもあったのである。


2004年2月20日

 ニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴ…  

先日、ある人と電話で話していた時に「ダイスポさんは、すぐに人口のことを話題にしますね」と言われた。語句は多少違っているかも知れないが、そういう意味の事を言われたのだ。どこか都市の話をしていると、私はすぐに「…ところでその都市は人口どれくらいなんだ?」と尋ねると言う。

言われてみればそうかも知れない。都市を語るときに、私がまっさきに気になるのは人口である。これは子供の頃から変わらない。私が生まれた町は当時「河内市」と言ったのだが、まれてからすぐに周辺の2都市と合併し「東大阪市」に生まれ変わった。「河内市」「布施市」そして「枚岡市」だったのが、三つの町が重なって大阪で3番目の大都市に変貌したのである。でも大都市とは言っても、そんなに大きな繁華街は無い。大阪市に近い「布施」という町が一番にぎやかだとは思うが、それでも大阪市内の盛り場とは比べるべくも無い。

子供の頃、東大阪市の人口は約52万人であった。毎月市から配られる「市政だより」という薄い新聞のようなものに、毎月の人口変動が記されていたのだが、子供の頃の私はそれを見るのが楽しみだった。ところが東大阪の人口はそれ以来、増えも減りもしなかったようで、2004年2月現在、人口は51万人余りだと言う。参考:東大阪市ホームページ

そしてこの30年近くの間に、どんどん人口を増やした他の都市に抜き去られてしまったようだ。

もう一つの関心事は、大阪市と横浜市の人口第2位レースだった。その頃(70年代半ば)は、まだ横浜より大阪の人口が僅かながら上回っていたのだが、その後間もなく横浜に抜かれてしまい、今ではすっかり差を付けられてしまった。これは人口にこだわる大阪出身者としては、非常に残念なことである。だが大阪にせよ東大阪にせよ、もう人口が増えるような土地の余裕など無いのだろう。素直に横浜の「2位昇格」を認めるしかあるまい。

だがJリーグの順位表を見ていると、私は時として非常に違和感を感じる。1位(FC)東京、2位横浜(マリノス)、3位(ガンバ)大阪、4位名古屋(グランパス)…、こういう順位構成だと、人口ランキングに準拠していて落ち着くのだが、これが1位(ジュビロ)磐田、2位(ジェフ)市原、3位鹿島(アントラーズ)…で14位(ヴィッセル)神戸、15位京都(サンガ)とかなっていると「ちょっと待て!それは人口比からしたらおかしいやないか」と言いたくなってしまう。そんなこと言われても困るだろうが、こっちだって困るのだ。

と言う事で、今はアメリカの都市人口も気になる。1位ニューヨーク、2位ロサンゼルス、3位シカゴ…この辺までは、誰でも分かるであろう。では4位はどこか。これが意外にもヒューストンなのである。次がフィラデルフィアとなる。ボストンやワシントンDC、シアトルといった有名都市は、意外に人口が少ない。サンホゼやジャクソンヴィルの方が多い。

だから人口ランキングを元にプロスポーツ、特に春から開幕するメジャーリーグの順位を決めるとなると、ニューヨーク・ヤンキースがロサンゼルス・ドジャースとワールドシリーズを争って優勝。毎年こういう形になってくれないと、人口を気にする者としてはちょっと困るのである。「でもそんな事言い出したら、どのスポーツもアンタの住んでる、ニューヨークが優勝する事になってしまうじゃないか!」と、お怒りの向きもいらっしゃるだろう。そう、そういう事になるね。ボストンやシアトルは、プレーオフに出られるだけで良しとしましょう。


2004年2月19日

 It's Only A Paper Moon  

先日紹介した"Sex and the City"の出演者、クリスティン・デービスは、TNTのテレビ映画"The Winning Season"に出演するらしい。この作品は伝説のメジャーリーガー、ホーナス・ワグナーを描いた作品で、クリスティンはそのフィアンセ役を演じる予定になっている。このドラマも大変楽しみだ。

私の好きな歌手にナット・キング・コールがいて、この人のベスト盤を聴いていると非常に心地良く眠る事ができる。そのアルバムの中にIt's Only A Paper Moonという曲がある。ライアン・オニールとテイタム・オニールが主演し、テイタムが史上最年少でアカデミー賞を受賞した映画「ペーパー・ムーン」にもでてくる歌だ。天才子役テイタム・オニールの可愛さといえば無いのだが、この映画の魅力を語ることが今回のテーマではないので、それは別の機会に譲ろう。

映画の中でも流れてくる同曲だが、歌っているのはコールではなく女性の歌手である。コールが歌うほうが私は好きだ。ところがある時、また別の歌手が、TVでこの曲を歌っているのを聴いて「ああ、上手いなぁ…」と、思わずため息をついたことがある。その歌手こそ誰あろう、美空ひばりだった。ひばりは、ジャズのアルバム等も吹き込んでいたらしいが、私が見た映像は「ミュージック・フェア」か何かで歌ったものだと思う。日本人の歌手が英語のナンバーを歌うと無理を感じてしまうが、ひばりのIt's Only A Paper Moonにはその違和感をまるで感じなかった。もちろん独特の歌唱法を持つ彼女が歌うと、オリジナルの響きはすっかり失われていたが、しかしすっかり楽曲を自分のものにしてしまっていた。

有名な逸話だが、彼女の英語の発音はとても綺麗だった。と言っても英語を話すことは出来なかったが、天才的なリスニング能力の持ち主であったひばりは、英語の歌を歌いこなす事が出来たという。歌詞の意味は分からなくても、「音」として理解しマスターしていたのであろう。ひばりが歌うジャズを聴いたアメリカ人の音楽関係者が、歌っているのが日本人だとは遂に分からなかった、というのが「ひばり伝説」の中にある。さすがに、アメリカ人と勘違いしたというのはどうかと思うが、その真偽はさして問題ではないのかも知れない。あんなに心地良い、耳障りの良い歌い方のできる歌手もそうはいないからだ。あまり好きな芸能人ではなかったが、エンターテイナーとしてやはり凄い人であることは違いなかった。

ところで、「ひばり伝説」が本当なのかどうか、私はそのうち試してみるつもりだ。もしひばりのCDが手に入ったら、ひばりのことなど何も知らないアメリカ人の友人に一度聴かせてみるのである。果たして、どう思うだろうか。


 

2004年2月18日

 書店散歩術 

子供の頃から書店が好きだった。本が好き、読書が好きと言うのもあるが、それよりむしろ書店という空間にいる、時間そのものが好きなのかもしれない。でもそれは、私が知的な人間である、と言うことを意味する訳では勿論無い。むしろ本質的に知的な人間では無いから、書店という「なんとなく知的な匂いのする場所」にいたがる、という可能性もある。

和書と洋書では匂いが異なる。新宿紀伊国屋書店の最上階は(今はどうか知らないが)洋書コーナーであり、下の階とはフロアの匂いが違っていた。客には外国人が多く、また「俺、英語やフランス語の本読めるんだからな、他の奴とは違うんだからな」という顔で立ち読みしている(と思われる)日本人客も多かった。洋書を読んでいる彼らの顔は晴れがましく、興奮で鼻の穴が膨らんでいた(ような気がする)。

紀伊国屋では本を読み、買い、そして地下で食事をする事がよくあった。とんかつ屋の「和幸」で安いランチを食べるか、あるいはエレベーター前のカレー屋でささっとカレーを食べる。ここのカレーはとにかく変わっていて、ルーがサラサラだった。カレールー特有の粘り気がなく、まるでスープを飲んでいるような味わいがあった。家で嫁さんにこんなカレーを出されたら暴れるところだが、まさかお店で暴れるわけにはいかない。いや、実際のところ、味が薄くてサラサラなわけではなく、味がしっかりとついている。だから特に不満はなかった。本を買うついでの食事だから、そんな事はどうでも良い。カレーはすぐに出てくるし、すぐに食べられるし、エレベーターの前にあるから便利だった。決して一流の味ではないが、妙に印象に残るカレーだった。

それよりも、この店はカウンターだけの店だが外の通路から丸見えで、エレベーター待ちをしている客からは食事しているところが丸見えである。これが結構恥ずかしい。一度本当に知人に見つかり声をかけられたことがある。知人は私の姿を認めたあと、店の玄関前にたち私に話し掛けてきた。私は食べながら彼に応対した。しばらく話した後、彼は結局カレーを食べずに立ち去っていった。店からすると迷惑な男であった。

池袋なら西武百貨店の「リブロ」が好きだった。この店は昔は百貨店の11階あたりにあったのだが、今は地下になっている。品揃えが良かった。六本木なら「青山ブックセンター」になる。交差点のところにあった誠志堂書店も行ったが、閉店してしまったようだ。六本木の代名詞的存在だったので、まさかという気持ちである。参考:六本木の歴史

もちろん、町の小さな書店も好きだったが、最近そういう店は商売が立ち行かなくなっていると聞く。ニューヨークにも老舗の書店はたくさんあったらしいのだが、近年はすっかりその数が減ってきている。健在な店もまだまだあるのだが「バーンズ・アンド・ノーブル」を代表格とした大型書店には、どうしても太刀打ちすることが出来ない。私だって、個性あふれるローカルの書店は好きなのだが、ついつい「バーンズ・アンド・ノーブル」に行ってしまう。なにしろ会員カードを持っているので、何を買っても10%割引してくれる。付属のカフェで飲むスターバックス・コーヒーでさえも10%引きなのだから、この魔力にはなかなか勝てない。メグ・ライアンとトム・ハンクス主演の映画「ユー・ガット・メール」みたいな話は実際にあるのだ。

ミッドタウンにある同じ大型書店の「ボーダーズ」も私のお気に入りである。仕入れが「バーンズ・アンド・ノーブル」とは微妙に異なり、違った本を見つけることができる。またユニオン・スクエアにある古本屋の「ストランド」が楽しい。このお店、とにかく汚い。特にトイレは笑ってしまうほど汚い。しかし本の数は圧倒的だ。本も山積みになっているが、それがまた良いのだ。NYU(ニューヨーク大学)に近く、店の中はいつも活気に溢れている。そして私はこの汚さと本の多さにうっとりするばかりなのである。

(文中敬称略)


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