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マルダーのレッドウィンガーへの道!
Mulder's Detroit Red Wings Page
レッドウィングスの歴史(1)
(序章)スタンレーカップ奪還 |
1997年6月7日…
デトロイト市民は、この日を待ちつづけていた。 デトロイト・レッドウィングスが、遂にスタンレーカップをその手に取り戻した瞬間であった。キャプテンのスティーブ・アイザーマンがカップを受け取るや、高々と抱え上げて天空に突き上げる。期せずして沸き起こる大歓声。アイザーマンにとっても、夢にまでみた光景がついに現実のものとなった瞬間であった。 42年間待ちつづけた優勝。長かった。しかしこの瞬間、全てが報われたのである。男たちの表情には、大きな仕事を成し遂げた満足感から来る笑みがこぼれていた。
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(1)レッドウィングスの誕生
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レッドウィングスは、1926年9月25日に「デトロイト・クーガ−ズ」Detroit CougarsとしてNHLに加盟した。 もともとは、カナダのブリティッシュ・コロンビア州にあるヴィクトリア・クーガ−ズというチームが、「ウエスタン・ホッケーリーグ」の一員としてこの年まで活動していた。そのクーガ−ズの選手たちを、デトロイトに球団を作ろうとしていたグループが買収したのがチームの起源である。 このヴィクトリア・クーガ−ズというチーム、1925年にスタンレーカップ優勝、翌26年には準優勝を達成した当時の強豪チームであった。しかしチームのファースト・シーズンとなった1926−27シーズンにおいて、デトロイト・クーガ−ズは14勝28敗と言うNHLで最低の成績を残してしまった。 そして不調だったのはチームだけではなく、球団の経営も同様であった。いきなり8万5千ドルもの負債を抱えてしまうのである。
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(2)救世主ジャック・アダムズ
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そんなチームに救世主となるべく現れたのが、ジャック・アダムズという男であった。トロントや旧オタワ・セネターズなどでプレーしていたアダムズは、クーガ−ズが苦境に陥っていることを知る。彼はNHLの会長であったフランク・カルダーに「彼らには、私のような男の助けが必要ですよ」と申し出、自ら助っ人を買って出たのである。カルダーはアダムズのこの申し出を受け入れ、アダムズはクーガ−ズのコーチ兼GMに就任することになった。 アダムズはクーガ−ズの選手達が、ホームリンクでもブーイングを受けるのに驚いた。デトロイトはカナダ国境に程近く、カナダからアウェーチームのファンが大挙して応援に駆けつけていたのである。
またアダムズは、ホッケーの監督業が思ったよりも難しい仕事であることに気付かされた。アダムズが指揮を取ってから最初の4年間で、クーガ−ズは一度しかプレーオフに出場することが出来なかった。そして赤字続きの経営が改善されることはなく、選手の給料を支払う為に、アダムズはたびたび自腹を切らなければいけなかったのである。時はまさに大恐慌が到来、稀に見る不景気の時代であった。アダムズはチーム名を「ファルコンズ」と改めるなど、チームに関して変えられる事なら何でもやってみた。 しかしこの経営危機は、あるとき突然解決することになった。
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(3)その名はレッドウィングス
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1932年、レッドウィングスはジェームズ・ノリスにより買収された。ノリスはモントリオールに生まれアメリカに移り住み、穀物の商いや運送業などで財をなした大富豪であった。多くのカナダ人と同じように、彼も若い頃ホッケーをプレーし、歳を取ってからもなおその情熱を持ちつづけている男だった。自らの邸宅に小さなリンクを作り、自分の子供たちがホッケーを出来るようにしていたほどのホッケー狂だったである。 アダムズはノリスから電話を受け、彼のオフィスに出向いた。アダムズがオフィスに現れるや、ノリスはいきなり彼を怒鳴りつけた。「いいか、お前に1年間という時間を与える。これは猶予期間だ。俺は金を出す、お前はそれでチームを立て直すんだ、分かったな!」
「イエス、サー!」アダムスはそう答えながら、にやりと笑った。アダムスはこの新しいオーナーが自分に合った性格と、またホッケーに対する並々ならぬ野心を持ち合わせている男であることに気付いたのである。この男となら、きっとどでかい事が出来るぞ… 「それと、もうひとつやることがあるぞ」「なんでしょうか?」 「チーム名を変えることさ」ノリスが言った。「その動物の名前やら、鳥の名前…クーガ−ズだのファルコンズだの、そんなのはもう忘れろ。今からこのチームは、『レッドウィングス』という名前にする」 「レッドウィングスですか…」「ああ。ワシが若い頃好きだったホッケーチームの名は"Winged Wheelers"と言ってな、車輪に翼のついたマークがロゴだったんだよ。このマークをレッドウィングスのシンボルマークとして採用するんだ。なんと言ってもデトロイトは自動車の街だ、相応しいと思わないか?」 こうして新しいチーム名とロゴマークのもと、アダムズ率いるレッドウィングスは新しい活力を与えられるようになった。長年頭を悩ませ続けた金の問題も解消し、アダムズが思う存分腕を振るえる環境がようやく整ったのである。チーム状態は明らかに上向いていった。1933-34年シーズンにはディビジョン首位になり、プレーオフでも決勝にまで進出した。残念ながら決勝では敗れてしまいスタンレーカップ獲得こそならなかったが、アダムズははっきりと手ごたえを感じていたのである。デトロイトにホッケー王朝を築く日が、すぐそこまで来ていた。 ちなみに1933年9月18日、後にレッドウィングスを率いる事になるNHL最多勝コーチ、スコティ・ボウマンがモントリオールに産まれた。だが彼がレッドウィングスのヘッドコーチに就任するのは、それから実に60年も後のことである。(続く) ※参考文献・資料は連載終了時に掲載いたします。
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